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小林素明の自伝(幼少期〜20歳まで)

僕は、1971年7月に母の実家がある兵庫県芦屋市で生まれました。生後は大阪に移り住んでいます。

母の実家は、阪神電車の芦屋駅からすぐの場所にあります。年に数回は、大阪から阪神電車に乗り、芦屋に行っていました。近くの公園や芦屋川で遊んでいたことを思い出します。今でも、阪神電車を見ると「あ〜そういえば」と回想することも多々。

人見知りをする男の子、とよく言われていて、自分から人前に出ることは大の苦手でした。まさか、今の運動指導をするなんて・・・。とても考えられません。

大阪では、大阪市西淀川区という工業地帯で育ちました。社宅に住んでいたのですが、社宅の前が大阪池田線という幹線道路で、四六時中、車の往来がありました。

そのため、騒音を対策で家の窓は二重。その当時は、それが普通だと思っていましたので、他の家が二重窓になっていないのが不思議で仕方ありませんでした。

工業地帯ならではなのか、小学生のときには、時折、校庭の朝礼台に黄色い旗が立てられていました。「光化学スモック」ですよ、という合図で、あまり外にでないようにと。

 

大阪市立香蓑小学校に入学

600小学生 入学
香蓑という名前が珍しいでしょ。「かみの」と読みます。僕の学年は4クラスありました。集団登校で、社宅にいる幼馴染みと全員で学校に行くのが楽しみの1つでした。

そこで、昨日見たテレビの話、学校での出来事を共有してましたね。当時ガンダムのプラモデル「ガンプラ」が大流行していましたので、ガンプラ発売日には「明日、並ぶ??」とガンプラ購入計画も。

みんなそうだと思うのですが、秘密基地を作ったり、ゲームセンターに行ったり(本当は禁止)、水風船ゲームをしたりと、かなりワンパクな小林に変身しておりました。

600小学生 雪

これは、大阪で20数年振りに雪が降った時の写真です。新聞いも大きく取り上げられていました。このとき、生まれて初めて雪を見ました。確か小学生4年生のときだったと。そのとき、「雪って、こうやって丸くなるのか!」とめちゃ感動したことを覚えています。

小学生の高学年になるとあることに熱中するようになります。

 

運動の基礎!腕立て伏せ、スクワット、腹筋で特訓の日々

600中学生 空手
金曜夜8時、ワールドプロレスリングに四次元殺法!タイガーマスクが登場します。リングの中をグルグル回る空中殺法、そしてカンフーキック。僕を魅了してくれます。

僕は考えました。どうすれば、プロレスラーになれるのか?と。当時はインターネットはありませんから、情報は本や雑誌のみです。

その情報によると、プロレスラーは、腕立て伏せ1000回、スクワット1000回など、過酷なトレーニングを積んでいることが分かりました。そうなれば、プロになるための特訓です。

また、タイガーマスクの空手技もマスターしたいと思いましたので、週2〜3回空手道場に通います。香具波志神社(淀川区)の境内でしかも裸足でやっていましたので、足の裏の筋肉がつきましたね。精神的にも強くなりました。

上の写真は、中学生のときの空手合宿です。これを最後に空手と別れを告げたのです。

 

初の転校に戸惑う小林

「もう大阪にはおられへんねん。」

こう告げられたとき、あまりにもショックで動揺を隠しきれませんでした。「何でやねん!俺一人でも大阪に残る!」と、親に言っていたくらいです。

そのときは中学生で、新たな友達もでき楽しんでいたときでしたので、転校は信じられないという気持ちでした。

転校先は福山市(広島県)、父の転勤先です。転校先のクラスメイトはみんな良くしてくれましたが、はじめは方言がよく理解できなくて悩んでいました。

これは教えてもらったのですが、福山市の小学校の教科書に

Aさん 「このゴミ、ほかしといて」(大阪弁)
Bさん  ずっとゴミを持っていた。

これは、Bさんが「ゴミ、ほかん(保管)しといて」と聞き間違えとたいう、方言の違いを表すエピソードが書いてあったというのです。

今でもそんなことが書いてあったのか?と半信半疑ですが・・・。

部活は、陸上を選びました。理由は、球技が苦手だから。陸上の顧問の先生も熱血で、のめり込むことになります。大会にも出場していました。

高校でも陸上をやりました。高校が自宅からかなり遠く、自転車→電車→徒歩と1時間くらいかかっていました。脚力養成に良いなぁ〜と言いながら、通学していていましたね。

高校時代には、ベネズエラから来た留学生もいました。かなり日本語も流暢で、人気者でした。外国人に触れ合ったはじめての人です。

 

新聞配達で初の海外旅行

600ハワイ
高校を卒業すると、関西に再上陸。神戸の専門学校に進みます。学費を出せる余裕がないことを知っていましたので、学校に通いながら働ける新聞配達の制度を活用しました。

住み込み、朝刊と夕刊を配り、空いた時間で学校に行くという制度です。当時はかなり優遇されていましたので、学費の多くを支払うことができ、生活費も自分で賄っていました。

それだでは物足らず、夜には週3回くらいですが焼肉屋でアルバイトをしていました。このアルバイト先が楽しくて。今でも、交友関係を続けています。

この新聞配達でのご褒美には、ハワイ旅行もありました!! 本当にエンジョイしました。初の海外旅行。

確かに、早朝に起きるのは辛かったですが、とても充実した毎日を過ごすことができました。一番楽しい時期だったと思います。

600朝日奨学生
朝日新聞の「朝日奨学生」で働いていました。2年間の修了証です。

 

ミナミで就職、母は反対!

ハイキング02
大阪の道頓堀にあるサウナ、スポーツクラブに就職することになりました。ミナミのど真ん中でしたので、母は反対をしていました。「危ない」と。

しかし、僕も譲らず、前職であるニュージャパンに就職しました。そこでは、仕事をしながらサービスのことを学ぶ機会が多かったです。

スポーツクラブに配属され、ジムやプールで運動指導もやっていましたが、イベント企画運営にも携わっていました。ハイキング、バーベキュー、球技大会、ぜんざい振る舞い、ホノルルマラソンなどたくさん企画しました。人と触れ合うことがこんなに楽しいとは。

社会人としての基礎、そして運動指導とは何か?をたくさん教わりました。本当に自由に仕事をやらせてもらっと思います。アメリカ視察のための休暇も与えてくれました。今でも、直属の上司には感謝しています。

新たな道へ進むため、17年間勤めたニュージャパンを退社します。そして、今の会社を起業することになります。  続く
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